株式会社しめしめ

日記や、経済時事ネタの評価をしています。

面白い記事を見つけました

 前回のブログの書き出しで能登半島地震の発生について書きましたが、書いている時に海上保安庁JALの飛行機が衝突していました。海上保安官の犠牲者のご冥福をお祈るとともに、JALの乗員乗客全員が避難できたことに安堵しました。

 3日、4日と災難が続くと思いましたが、その後は特に何も起こっていないようで、一安心です。とはいえ国内に限った話で、ガザやウクライナでは戦闘が今も続いており、毎日悲惨な現状があることは、忘れてならない気がします。

 

 ネットで情報収集していると、面白い記事を見つけました。いつものように、抜粋します。

 

「保育園落ちた日本死ね」がバズったのは当然だった…日本人があらゆる問題を「国家」のせいにする理由(プレジデントオンライン)

待機児童問題を批判した「保育園落ちた日本死ね!!!」という言葉は、なぜ流行語となったのか。関西外国語大学の戸谷洋志准教授は「日本社会から『自分の声を聴いてくれる存在』が消失し、不満が直接国家に向くようになった。孤独な現代人は『私の話を聴きたいと思っている人』を求めている」という――。

 ブログは、待機児童問題を批判する叫びとして世間から大きな注目を集め、国会で取り上げられるだけでなく、同年のユーキャン新語・流行語大賞のトップテンにランクインしました。

■家庭と国家しか存在しない世界線に生きている

 ここで注目したいのは、保育園に落ちた絶望が、直接的に国家へ向かっている、ということです。

 投稿者が直面している苦悩は、仕事と子育てを両立することができなくなり、自分の思い描いていた人生を歩めなくなったことでしょう。そして、その問題を解決できるのは国だけだった、と、投稿者は考えているのです。だからこそ、国に対して怒りの矛先が向けられています。

 投稿者の生きている世界には、あたかも、家庭と国家しか存在しないかのようです。国家が助けてくれなかったら、誰も助けてくれない――そうした環境に、この投稿者は置かれているのです。

■攻撃的な口調は「誰にも声が届かない」悲しみの裏返し

 しかし、伝統的な日本社会には、家庭と国家の間に位置するコミュニティ、中間共同体が存在しました。いわゆる地縁と呼ばれるコミュニティがそれに該当します。お隣さん、近所のおじさんやおばさんです。

 若い両親が子育てに困っているとき、まず頼ることができたのは、国家ではなくてそうした地域のコミュニティでした。たとえ国家が自分のことを無視しても、近所の人は自分の話を聴いてくれる――そうした信頼が社会のなかに当たり前のように存在していたのです。

 しかし、ブログの投稿者に、そうした中間共同体への信頼は皆無です。その非常に攻撃的な口調は、自分の言葉が誰の耳にも届かないことに対する、深い悲しみの裏返しでもあります。そうした絶望が、子育てという、人生でもっともハードな仕事を引き受ける親の心を蝕んでいることは、誠に憂慮するべき事態でしょう。

 

 2022年11月28日の記事「グレートリセットについて考えてみた」で、「公助」が困難になりつつあるため「共助」に移行せざるを得ないと書きました。2023年4月14日の記事「放蕩旦那の補足」では、大家族から核家族への移行と都市化について、説明しています。引用した記事は視点は違いますが、似たような内容になっていると思います。

 

 最近、子育てや若者の貧困などに関する予算措置が、急速に拡充されていると感じます。これは良い事ですがあまりに急速なので、もし私が危惧しているトリプル安(株安・円安・債券安)になった場合には行政のお金が不十分になるので、その時に「共助」でしのぐことができるよう、予算拡充で仕組み化を促しているのではないかと邪推してしまいます。もちろん、そうならないことを望みますが。。。

 

 今日も最後までお読みいただき、ありがとうございました。